信心を頂く稽古
昭和五十四年三月五日 朝の御理解
御理解 第四十八節 「わが子の病気でもかわいいかわいいと思うてうろたえるといけぬぞ。いうことを聞かぬ時に、ままよと思うてほっておくような気になて信心してやれ、おかげが受けられる」
一つの信心の要諦です。おかげを頂いて行く言うならば秘訣のようなものです。なかなか安易いようで難しいのです。仙人の修行を願い出た或る男が師匠の仙人から、この崖の上にある松の木に登れと言われて登った。そこで右手を放せ、と。踏まえておるその足を枝からはずせと、手をはずし足をはずし片一方の手でぶらさがっておる。さぁそれをもはずせ、と言われたという話があります。
なかなかもって難しいですね、やっぱり。けれどもそれを外した時に、もう次の手はつかまっておる、次の足は枝の下に踏まえておる、と言う。そのはずす心が言うなら仙人の極意なんだと言う。
信心をさせて頂いて徳を受けると言う、これは仙人以上の事でしょうねぇ。お徳を受けると言うのです。それにはこの「ままよ」という心、言うならおかげを頂かんならんからの信心ではなくて、どこまでも信心を頂くための信心であり修行でなからなきゃならないと思うね。おかげと言うそれをなかなかはずしきりませんね。こうやって一生懸命朝参りさせて頂いとるのも、あれを頂かんならん、これをもらわなんけんばっかりにお参りしとるとですよね、とこういう事になるね。だからそれをはずしなさいって、ね。
なかなか放せませんけれどもやはり、私は今日の御理解はね、四十八節とあることは、いつもお徳を受けるチャンスということはあるんだと言うこと。四十、始終、いつも広がりに広がる。
昨日、御用日誌に出ておりますお届数が、九十九です。もう一名何とかならなかっただろうかと、例えばね、もう一名で千人ですから、言うなら成就と言うような感じです。九九九、もうとにかく苦しいばっかりね。
昨日は神愛会でしたから、神愛会でいろいろ先生方の尊い体験を聞かせてもらいましたが、最後に若先生が発表しておりました。それは最近、幹三郎と二人である勉強に取り組んでおる、言うならその発表でした。
五行説と言うのがあるね、陰陽説と言うのがある。支那の、もう膨大な本が、大きな厚い本だそうですが、それを読んでいけば読んで行くほど、そしてわからんところは字引を引いていけば字引を引いていくほど、合楽の信心の素晴らしい事に驚いてしまうという話を致しておりました。勿論、陰陽説、五行説の中には、月火水木金土と言う、水の性、土の性というようないろんなそういうものの説明がず-っと出てくるんですよね。もう計算づくできちっとした学問になってるというわけなんです。こういう例えばその中に人相学であろうが骨相学であろうが、様々な言うなら学問が入ってくるわけ。もう計算をすると、こういう骨相はいかん、こういう名前はいかん、こういう家相はいかんというふうにちゃんと計算が出てくるね。そしてその答えの言うなら字引を引かせて頂いて、合楽で説かれておる事がいかに素晴らしいかという事をわかる。
それを簡単に一つ申しますと、親先生が、人間は土より出て土に帰るんだから、その道中とても土の生き方で行けよ、と言われる。もうこの一言だけで全部がもう なる、という説明がしてあるそうですね。他の例えば、月火は二つが組まなきゃいけんね、水と木の性はそれが一つにならなきゃでけん、ところが土だけはね、もうその他の六つの月火水木金土の中のものが、その土の中に全部入ってしまうものだ、と言うことであります。でそれのいろいろな説明が全部漢字で説明してある。それをですいよいよ字引で引いてみると、親先生が日頃言うておられる言うならばね、合楽理念の素晴らしさ、合楽理念はね、とにかく簡単です、明瞭です、しかもおかげがはっきりしておるということです。
合楽理念はそういう素晴らしい、もうあらゆる人間の言うならば創った学問のすべてを持ってきても、土の信心の生き方一つで解決すると言う程しの事がその本にでておる。と言われております。いよいよ合楽理念の素晴らしさという事がわかったのですから、いよいよ合楽理念の行者ともならせてもらい、言うならば合楽理念の実証者に一人一人がならなければならないと。
一月の十八日の月次祭のお説教のビデオをみんなで見せて頂きました。それにはね、合楽の先生のお話は名人とか上手とかね、徳者でもかなわない、それはそれ以上のものだから、と言うこれは佐田先生がある研修の時に発表しておる言葉なんです。
上手でもない、名人でもない、徳者でもないけれども、それ以上のものが親先生のお話の中にはあるんだ、と言う説明をしてるんです。私が皆さんにこうやって聞いてもらっておるということもです、昨日から皆さんに聞いて頂きますようにね、信心の言うならば「構え」と言うか、言うならば「コンディション造り」ということね。まず心の状態、頭脳の状態、肉体の状態、この三拍子が足ろうて御神前に向かうという話をさせてもらったですね。こんな話は、末永先生が言ってました、十何年ここで修行させてもらいよるけど初めて聞いたと。初めて聞いたろばってん私としてはもう、これはずっとわたしの心の中で行じ続けておること。そこに合楽の言うなら信心があり、足ろうたおかげがあると言うのですね。
徳者も名人も上手もかなわない、それはなぜかと言うと、それ以上の話しだからと言う実話を実例を話しております。私はその上に、人を軽うみな軽う見たらおかげはなし、ですからそれを人間言うならば、と見らずに罪を憎んで人を憎まず、といったようなものではなくてね、人間の言うなら人生そのものを見ていくという生き方、のご理解に対して私はその朝お話をしたそのお話が、大和さんとそれから福岡の伊藤さんが前の晩に頂かれたお夢、朝御心眼に頂かれたお知らせを例にとって話しておるんですね、大和さんのお夢は、寿司屋さんが大和さんのところに寿司桶をもってやって来た。寿司かと思ったら中には人参が入っておった、しかもそれにタイトルがついておった、「人神」と書いてあった、人参にね。伊藤さんのお知らせは、この合楽の正面に長い看板が出ておる。それにはひらがなで「にんじん」と書いてある。そして頭か尻かにでしたが「卸」と書いてある。卸小売りの「卸」ここでは言うならばもうそれこそ我が心が神に向かうのを信心と言う、言うなら生神をめざしておる皆さん、とりわけならここで黒衣をつけて修行しておる人達は、いよいよこの「人神」をめざさなければならない。しかも「卸」なんだ。
そういう意味で言うなら修行性がここで育っておるという意味では日本一だろうね。この一字を見ただけでも、合楽の先生の話しが合楽の先生の話ではない、言うならば神様が私を使い、伊藤さんを使い、大和さんを使うて、このようにも本当なことを皆さんに聞いてくれよ、わかってくれよ、行じてくれよと言うておられるのだと言うことをですね。そう感じなければ、ほう不思議な事じゃあるなというだけで聞き逃しちゃ出けんと言うのである ね。言うならば合楽の信心と言うのが完璧の域に入ったとね、これを完璧にいよいよしていくという事はなかなか一朝一夕に出来ることじゃないけれども、もうこの道を行きさえすればもう絶対だ、というそれが合楽理念なんだという話しをきかせて頂いて、本当にそうだなと。
とにかく合楽理念一辺倒に教団全体が、いやそうじゃない和賀心時代を世界に布くと言うならこの生き方、それこそ簡単です、しかも行おうと思えば行えるです。楽しさが出来ます、有り難さが湧いて来ます。もうそれこそ愉快にすらなれれる道なんですね。
五行説、陰陽説、例えばそういうです、もうとにかく勉強すれば勉強するほどわからない程しの、それは成程勉強すれば計算ずくにチャンと答えが出てくるようにはなっておるけれども、それをなら身につけるという事は大変なこと。いわゆる簡単じゃないということ。そういう言うならば大変なことを合楽では合楽理念に求めてね、人間が幸せになっていくことのための道、天地と交流することの出来れる道というものを説いてあるのだから素晴らしい、言うならば素晴らしいづくめの中の話しを昨日は一日聞かせて頂いてです、昨日最後にその九九九、私はそういう合楽の本当にそういう素晴らしさ、というようなことをです、もう皆がどうしてわからんだろうかと、こういう素晴らしいおかげの頂ける道を皆がもちっとどうして本気で頂きに来んだろうか、本気でなぜ行じないだろうか。
昨日は神愛会でしたけれども、いつもより先生方が四、五人、まいろんな事情でしょうけど見えられなかった。もう何を置いてでもこの神愛会には出て来なければおれない程しの内容のお話しが頂け、頂いて帰れるのに不思議なこっじゃあると私は思わせて頂いた、そしたら九九九という昨日のお届けのそれを頂くんです。
今合楽が九九九にあるところなんだと、もう一つで 千 だけれども、ここは大坪総一郎お前自信の信心がもう一つ、一ふんばりしなければでけんとこぞ、今慢心でも、昨日の話しの中にね、それこそ徳者も言うならば上手も名人もかなわん程しのものだから、合楽の信心が素晴らしい。それを実証としてですね、なら今言うその人参の話、間違いのない絶対の話。もうとにかく合楽の信心が最高峰だ、しかも簡単で明瞭でしかもおかげが確かだと。これだけの事を言うて聞かせてあるのだから、皆がわぁ-と言うてついて来なければいけないはずなのに、ついて来んのは私の信心にもういっちょう欠けたものがあると言うことだ。
まあ危ないことに、昨日は慢心がでろうとしよるね。成程若先生が勉強しております今の五行説とか陰陽説とか言うても、こんなに難しい事をこんな簡単に表現できて、人の助かる手立てを説いてある言うならば信心はない。そうだそうだよと私も思うわけね。
大和さんじゃないけれども、伊藤さんじゃないけれども、私が言いよる事は間違いがなかろうがの、と言うわけなんです。だからそれは間違いがないんだけれども、それを間違いがないそれを伝えておる私自身の信心が九九九だということ。
もういよいよもってこの九九九の自覚をもってです、いよいよ絶対の道を絶対としておかげをいただいておかげを頂いていかなければおれないわけなんですけれどもね、そういう信心の中にですね、私どもがおかげおかげで言うならば、放すものも放しきらずにいっても、どんなに素晴らしいお話しを頂いても、それは皆さんの信心の血に肉にはならないということ。
本当に合楽で言われとる信心を本当に体得しよう、体得するその楽しみ、喜びが言うならば日参であり教聴でありね、心行であり家業の行であるということになってきた時に、言うならばもう完璧の域に入ったという事になるのです。それまでは完璧の域じゃない、おかげ信心じゃから、そりゃまあ合楽の信心は程度が低いと言われても仕方がないね。それにはです、私共がね、言うならば、子供が病気して、もう難かしかろうと言うごたる時でも、とても枕元におってやらねばおれんのだけれどもね、子供がしんしょいうて言う事を聞かんときに、もう構わんよと言うような気になって信心してやれ、言うならその事をはずして信心してやれ、言うならばその事をはずして信心してやれ、どういう信心をするかと言うと、言うならば今日皆さんに聞いて頂いたようなところをですね、体得する事のためにもう一生懸命ね、はずす事の、自分の我情我欲をはずす事の、おかげをはずす事のね、信心修行が、本気で有難うなり楽しうなると言うような信心につながってくる時にですね、最後におかげが受けられるとあるのです。そのおかげが受けられる、というのを、言うならば最後のものにしなければならん。それをおかげが受けられるそのために
どう、そのために こう、という修行では、だから合楽理念の入口に一歩踏み入れたという事にはならんね。
素晴らしい、完璧だ、成程簡単だ、明瞭だ、ね。もうその明瞭というところなんかはもう本当にどう言って説明してよいかわからん程に明瞭なんです、合楽の場合はね。その気になれば、もう本当にわからせずにはおかんと、噛んでふくめる、これから先はもうあんた達の信心でというところがないね。明瞭に説き、言うならば聞かし明かしてある。これは私をも含めていま申しますように、九九九もう一つというところは、私はそういう言うならばね、本当に例えば稽古をするならば、本当に信心の稽古をしなきゃいけない。
おかげを頂く稽古じゃない。信心を頂く稽古である。そこにはね、言うならばおかげはある。あまりおかげがあると言われとるから、どうしてもおかげが先になるんですけども、金光教の信心はね、けどもここんところを一つ、言うならば釈然としたものにしていく修行がまず大事じゃないでしょうかね。
「どうぞ」